2016年6月21日

在来種のたねとり菜園づくり(8)廃村のいちにちに学ぶ働くということ

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種をまくということ


今日も種を播いた。

「ちーちゃんて、種ばかり播いているよね?」

普通の人が聞いたら、何それ、と思うかもしれない。
でもたしかに、最近、種ばかり播いている。


田んぼの畦にぐるりと生える豆を「畦豆」という。
ブータンでも畦に緑豆が栽培されていた。
豆は土に栄養を与えてくれる。

白小豆、黒千石、宮古島緑豆、何株播いただろうか。
種の中でも、特に豆はすぐに発芽力が落ちる。

というわけで、いろんな田んぼの畦を借りて、播ききれない在来豆を育てている。
前回記事:在来種の出張種まき〜たねをまきに行きます!〜

週末はまた大見新村へたねまきにいってきた。

大見村についてはこちら:在来種のたねとり菜園づくり(6)京都市内にある廃村でたねとり菜園in大見村



川で鍬と軍手を洗う
豆の芽がでていた。

働くということ


住人が一人となった大見村には、週末通い農の方は何人かおられるようで、ときどき、たき火の煙があがったり、また、庭にひっそりと農作物が実っていたり、生活感が垣間見える。

普段人気のない村に、人の姿が見えることが逆に新鮮に映る。人里に降りてきて畑を荒らす猿やイノシシなどの獣害もむしろない。そのくらい人里離れているのだ。


「わらび、いるか?」
おじさんから声をかけてもらい、ついていくと、ずた袋に入った大量のわらびが土間に転がっていた。
大見村ではいまがわらびの全盛期だそう
「すごい量ですね。」

わらびをもらいに行ったついでに小一時間話しこんだ。

おじさんは、小さい頃はここにすんでいて、小学校もあったといいます。

かつてここで踊っていた盆踊りのこと。
神社のこと。山菜のこと。
それは、廃村に生きた普通のひとたちの歴史。


物語はどうはじまって、どう終わっていったのか。
なにもない廃村で考える。

灌漑設備がなく、天の雨に頼っていた頃、雨乞いのために祈ったのだろう。
獣が罠にかかっていたら、いのちをいただくために感謝したのだろう。
辛い畑仕事を楽しくするためにみなで唄ったのだろう。

もういちど、ゼロにもどって、祭りがどう始まり、どう歌が生まれ、儀式となり、社ができ、ご神木ができたのか・・・自分たちでルーツをゼロからつくっていこう。
そんな取り組みがいま進んでいます。


いまの私たちの生活は、天への依存度は低くなった。
雨が降らなくても飢え死にすることはない。
食べ物は冷凍保存できるようになり、保存食も必要なくなった。
貨幣は腐らないし、貯金ができる。


生きるための労働は極端に減った。
かわりに、お金を生み出す労働が増えた。

家賃を稼ぐため。
学校に行くため。
旅行に行くため。
友達と飲むため。


生きるために時間を使うのではなく、何に時間を使いたいのか選択ができるようになった。



今日も水が飲めること。
だれかが代わりに野菜を育ててくれていること。
だれかが、水道の検針にきてくれていること。
だれかが、わたしの服を作ってくれていること。


何でもできるだけに、自由であるために、
お金を払えば手に入るのがあたりまえになったために、
だれかがだれかのために存在していることが見えにくくなった。


麦わら帽子の四菱編み。春日部が産地だそうだけど、作っているひとはいまほぼいない。

でも、お金で全てが買えるわけではない。
病気になるときはなるし、災害がおこるときはおこる。

結局は、祈ることしかできないのは、今も昔も変わらない。

そのいつかおこるかもしれないことをあえて意識せず、先送りしているような気がする。
人は、病院で生まれ、病院で死ぬようになった。
火葬場のオーブンで機械的に焼かれ、骨になっても土には還らない。



何のために働くのか。
どう生きたいのか。

廃村だからこそ、もういちど、ゼロになって考えられる場所なのだろう。


ぐみの木


はかどる手仕事

昼からは雨がひどかった。

もちこんでいたラダックのドキュメンタリーを見ながら、麦を干したり、縫い物をしたり、こつこつと手仕事。電波が届かないから集中できる。
麦を干しながら映画鑑賞
人生は短い。

月〜金働いていると自由に使える時間は限られる。

でもその自由な余暇は、買い物したり、テレビ見たりするよりも、もっと根本的なこと、たねを播くこと、食べること、自分が着るものをつくること、丁寧な時間をすごしたいとおもう。


それは、生きるための労働。
もちろん疲れるのだけど、なんだか職業としての労働とは疲れ方が違う気がする。

つぎはぎだらけの布がむしろ美しい


ワラジ作り
牛用のわらじも手作り


昔は他に方法がなくて仕方なくやっていたことをあらためて考えてみたい。
ひとまかせにしないで自分にできることを考えてみたい。


それは、お金を儲けるための労働ではなく、
GDPという指標では豊かにはならないかもしれない。

でも、むしろ、ぜいたくなことであり、優雅な時間の使い方だと思う。

廃村のいちにちに学ぶ働くということ、生きるということ。

暮らしにむきあって考えていきたいと思う。

sousouの型紙で野良着

古民家の屋根裏からでてきたもんぺ
かぶのたねとり

次回の予定:
来週の手仕事の会は、ソーシャルキッチンをお借りできることになりました。
北野天神さんで古布を探して、ひたすら野良着ともんぺづくりしてます。

前回記事:
在来種のたねとり菜園づくり(1)在来種のたねとり菜園の準備にむけて
在来種のたねとり菜園づくり(2)データベース化
在来種のたねとり菜園づくり(3)三連休は3日連続で開墾〜!
在来種のたねとり菜園づくり(4)30種類の小麦をまきました。
在来種のたねとり菜園づくり(5)30品種の小麦の成長
在来種のたねとり菜園づくり(7)麦刈りのつどい〜麦の起源をたどる〜

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